昭和45年03月01日 朝の御理解



 御理解 第4節
 「此方金光大神あつて天地金乃神のおかげを受けられる様成った。此方金光大神あつて神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は此方金光大神である。金光大神の言ふ事に背かぬ様、良く守って信心せよ。まさかの折には天地金乃神と言ふに及ばぬ、金光大神助けて呉れと言へばおかげを授けてやる。」

 教祖金光大神と天地金乃神様の云うなら関係とでも申しましょうかねは、この様な密接な関係をもっておられる。それも唯、親子と云った様な関係以上の関係とでも申しましょうかねー。此方金光大神あって天地金乃神のおかげを受けられる様に成ったと、神からも氏子からも、両方からの恩人は此方金光大神であると、云うなら金光大神を、天地の親神さまが恩人とまで称えて居られますね。
 ですからこそ、まさかの時には天地金乃神と言うに及ばん、金光大神助けてくれと言えば、おかげは授けてやると仰せられる程しの事、勿論、そのおかげの出所と言うのは、天地金乃神様で御座いますけれども、ね。いかにその天地金乃神様と金光大神がいわゆる天地金乃神と同根なりと言われる様な所迄、金乃神様と云うなら教祖の神様のとの間柄と云うものが密なもので在ったと云う事で御座います。
 私は此のご理解四節を頂いて、まぁ言うならば皆さんと私、私と金光大神と言う様な風にま云うなら置き替えて見てですね、私は考えるそして其れがやはり此処に天地金乃神をしてこの方の天地金の神のおかげを受けられる様に成ったと、氏子も又は、神も助かる事が出来る様に成ったと、言うなら感嘆の声を発して居られる天地の親神様のです、御様子とでも申しましょうか、それが其の侭です。
 親先生と御信者方との間と言うものが、この様な風にして此の様ないわば関係とでも申しましょうか、それが育って行くおかげを受ける時 始めていわゆる金光教的おかげと云うものが頂けるのだと云うふうに、私は信じますね。ここで皆さんが良く言われます様に、いわゆる金光大神とまでは無くても、「親先生」と言うたらおかげを受けると云う事実が在るでしょうが、いわば親先生と皆さんとの間柄と言うものが。
 その様に密接に成っておる。親先生あって初めて言うなら金光大神の信心、金光大神が私共に教えて下さる事が解った。金光教の信心が解った。親先生あって金光様の御信心が分かる様に成ったと云う。ですから親先生を抜きにしては、お互いのおかげは成り立たないと言う、いわゆる思い込みなんです。私は金光様の御信心を頂いて居りますね、ですから、その金光大神、金光様の御信心を頂いておると言う事が、親先生あって金光教の信心が頂ける様に成ったと言う事。
 私はそう云う風に、信者と取次者と云う仲がですね、この御理解4節に見る様な頂く様な、ま実感がですね私は出来て来なければならないのじゃないだろうかとこう思う。今日は、田主丸の むつやの、田代さんの3年の式年祭が、田主丸で御座います。私がお陰を頂きたいと思んですけれども、まあ田代さんと私との間に取り交わされた事なんですけれども、もう17、8年も前の話でしょうか。
 一番初めに、樺目に御神縁を田代さんが頂かれたのは、もうあの樺目いわゆる早創の時代で御座いました。まだ、あの六畳一間で私がお取り次ぎさせて頂いて居る時代でした。まあ本当の事言うたら北京時代からの知り合いなんです。私が北京に居ります時に、すぐ近所にむつや呉服店の看板が掛っとった、始めて尋ねてそれが田代さんで有る事が解った。まあそれからまあちらでお付き合いさせて頂いとりましたが、こちらではそう云う事は全然関係は無いものです。
 ではなくてま云うなら現在のむつやの、まあの時分にもうですね、いわゆる闇の呉服しかない時代ですねもう、まあですね。呉服類がまあ自由に手に入らないちゅう時代が在ったですかね、その時代でしたが丁度さなぼり まあ田主丸の町では、さなぼり売り出しが有ろうかと云う時期でした。ところが実際もう当時のむつやさんは、もうやめるかやめないと云う所迄いっとておった。
 それでお願いなりお伺い詣ってみえたのが初めてでした。「それは、おやめになっちゃいけません、続けなさい」と。それでももう町をあげての、さなぼり売り出しが間近かですけれども、ならべて売る商品が無いとこう云われる。それでもう時分以前新しい呉服だけじゃなくて古物もやはり扱うて居られましたし、それからまあ売れ残の物がまだ、それからほんなら売れ残りの品物やらそう云う物は有りましょう、ね。
 そりゃあ有りますけど、これは売れるもんじゃない。そっでほんなこて売出しを云うならますこし本当は新しい物を仕入れなきゃならない。云う様な状態の時それで、新しい物を仕入れ事は要らんけぇ今までむつやにある、いわゆる永年呉服をやって居られたのですから、いわゆる根着物と云うのが有る、もう売れないものそう云う物を店頭に全部出しなさい。そしてまあその大売り出しに参加しなさい」と。
 もうそれこそその時には、高芝の奥さんも一緒にあのお手伝いに行かれましたがねの奥様も。とにかくその残品整理ですよねえ、その根着物と云う物が売れる事売れる事、もうとにかく売れてしまう位売れたんですからね、あの時は。それからいわゆる現在のむつやを、たきつけられたんですよ。それが言わば、田代さんむつやのおかげの始まりでした。それから元気をだしてご姉妹二人でああして、いわゆる呉服、いわゆる始められ現在のむつやの土台が出来た訳です。
 その様な、ですから、売る事につけ買う事につけ、皆さんも御承知の通りですよね、あの様な熱心な信心が出来て来られて、だんだんおかげを頂いて参りまして現在のむつやがある。私は、なんの事でしたしょうか、夜の御祈念に丁度参ってみます時に、何の事からだったでしょうか、私は私自身としてま、あんな事をまあ皆さんに言うた事も無かったですけども。私何だったでしょう。
 それは私は忘れましたが、あのう田代さんむつやが在って当時の樺目がたちますと云う事を、と私は言うまあ云うたんです、何かそれは私は忘れました、当時は大変繁盛致して居りました。もう何年か経ってむつやがあって。現在の当時の樺目が立ち行きます。そしたら其れにもすかさずですかね、すかさずと云うかすかさず心にあるものですから、いや親先生、椛目あってのむつやで御座いますと、あの時もし親先生が居って下さらなかったら、現在のむつやは、どうなったか分かりません。
 親先生あって樺目あっての、むつやで御座います」と。云う様ないわゆる対話ですね。むつやがあって、樺目がたちます。いえー樺目あっての、親先生あってのむつやで御座いますとね。そう云う様なですね仲と云うものが、なら私と田代さんですかねとの間にだんだん深いものになって参りました。その打ち込み様と言うたら有りませんでしたですねえ。田代さん達姉妹の打ち込み様と。
 それこそ人が変な噂をする位には打ち込んでゆかれたのです。ね。私はそう云う意味でです。合楽の場合は、まあそれぞれに同じ様な意味の事が言えるのじゃないでしょうか。ね。そんなら委員長の秋永先生。秋永先生もあんたが居ってがなかったら、絶対現在の合楽はないよと。いいえもう本当にもし私が合楽に、御神縁頂いて親先生と知り合ってなかったら、現在のうめやは有りませんと云う事に成るだろうと思います。
 まあそんな事は云うた事は無か。そりゃあ朝からの一人一人の上に まぁ云うなら朝参りでもなさっておられる一人一人の上にそれが云えれると思うのです。そこに合楽の強味が有ると思うんですよ。此処に是だけたくさん皆さんがこうして集まって居られますがです、本当に、その通りが私と親先生との間柄であり、又、皆さんと合楽との間柄と云うのは、そう云う様なものなんだと。
 現在なら此処に、久富さんが居られ、秋山さんが居られ高橋さん居られ、秋永先生が居られ、永瀬さんが居り久富先生が居られ、前列に並んで居られる皆さんの、是を見ただけでもそうでしょうよ。久保山さんが、二列目にや、久保山さんが居られ原さんが居られ、永瀬さんが居られ佐田さんが居られ大和さんが居られ、久富さんが居られ、もう皆んな私は同じ実感だと思うですよ。
 取り分け此の人と云う事無い程しにですね、私と田代さんとの今の対話の事が、その侭皆さんとも同んなじ様な事が言えるんだと私は思んです。そこにね、私は合楽の信心はあり、そこに合楽の信心の、合楽のまあ云うなら合楽の御比例の元が有ると思んです。今私の控えのさんの写真の下に、梅の一輪ざしが差して御座います。今日はその梅が昨日は花が付いて今日は花がぽつと開いておる、まその根元に根じめの様に、早咲きの菜の花が入れて御座います。
 今日私、御神前で御祈念させて頂いて居りまして、座った途端に頂くのがそれだった。そして、この教典を開かせて頂いたら、ご理解四節であった。昨日、教徒社から電話が掛かって、末永さんが受けたらしい、今度皆さんがあのご承知で御座いましょう、教徒新聞ですね、あのう云うなら合楽を今度の新聞で紹介したい、だから其処でおかげを受けておられる御信者とまぁ、一家のまぁ何時も皆さんご覧になる通りそのう、そこの御信者さんを紹介したい、信心ぶりと云った様なものを聞きたい。
 まぁ取材に見える訳なんです。それで適当な御信者さんをまぁ信心経歴と云った様なものを、ちゃんとしておいて下さいと。まぁ時間が沢山ないですから。明日見える二日に見える、そしてもうそれも午後の三時ごろ、もう此処に見えるのは四時頃じゃないでしょうか、ま何時間か居っても取材をして帰られるらしんですけれども。そこでそんなら誰を選ぼうと云う事に成ったんです。
 合楽の場合はもう皆んなが家族をあげて、信心をして居ると云う人、ですから、言うなら、教徒でなからなければいくまい、一家をあげて信心が熱心でも無からなければも有らねばいけない。そう云う所でしぼって参りますと、もう誰が良かろう彼が良かろう、とにかくま十軒ばっかり例を誰彼が良かろうと云うて上げましたらもう、誰これの、かれのどれも良かろうと云う事に成ったんです。
 だからずうとまあ十回なら十回、十五回なら十五回、ま合楽シリーズと云った様なものをしておらんかぎり、どの信者を紹介していいか分からない位にあると言って、皆でまあ検討しあった結果です。何と言うてもまあ善導寺の久保山先生一家だろうと云う事に成ったんです。ね。神愛会時代の一番初めの総代でもあると同時に、一番の年長者でも有られたし、又、椛目合楽を通して打ち込んで来られたと云う事に於いても、結局久保山先生の所だろうと云う事に成りましたんです。本当にまあ私は思いますに。
 昨日の御理解じゃ無いですけれども、善導寺の久保山の場合をもし一言で言えと云うなら、神信心が出来るから、おかげが付いて来て居ると云う事なんです。それはもう、どうと言われん程しのおかげなんです。はあーもう信心をする様に成ってから、ああいうお城の様な家が建ったとか、財産が出来たとか、ね。こげな奇跡的なおかげとか云うのじゃ無くてですね、神信心が出来たから一家をあげて、あの様な信心が出来る様に成ったんだ。久保山の人達が口を開かれ、信心を語られる時です、ね。
 其れこそ親先生あって、現在の久保山が有るんだと。東京の稔さんから参ります手紙なんか見てご覧なさい、もう兎に角便せん三枚なら三枚の中に、どれだけ親先生が出て来るじゃ分からんお手紙の中に。親先生有り難う御座います、親先生有難う御座います。もう二回三回じゃないもうずうと最後まで、親先生有り難う御座いますである。僕は他の兄弟の様に、側でこうして毎日お参りする事が出来ない。
 もうだから結局はまさかの折りには、天地金乃神と云うに及ばん、金光大神助けてくれと云えば助けてやると云う意味に於いてです「親先生助けて下さい」「親先生」と云ったらおかげになると言うております。僕にはだから金光大神も天地金乃神もない、親先生有るのみだと、その親先生を通して金光大神が解り天地金乃神が解って来る。今度でも、まあご覧に成った方があるかも知れません先月号の婦人クラブにね。
 まあだ店を持ったばかりの お店がですそれこそ天皇陛下にお寿司を握ってあげるお寿司屋さんで有名な双葉寿司の何々と云う記事が、出て居ります。しかも写真入りでその四谷の双葉を紹介して居ります。まぁだお店を開いてからまだどれだけでしょうか、まぁだ一年。ことし七月に成らなければまだ。もうその一事を見ただけでもです、いかにおかげを受けているか分かるでしょうが。
 御承知のように長男の茂さんは、此処で御造営の前後から、経理部長としての御用を頂いて、此処の経理を扱って、愈々神様の生きて御座るしるしを分からして頂いた者は、私が一番だろうと言うて居る。そうでしょうねえ、是だけの事がなされる時に経理を預かって居るのですから、さあ何時は何十万何時は何十万いりますと、それが願い通りにおかげ頂いて行くのですから、神様の間違いなさが恐ろしい程分かって来た。
 お母さんは婦人総代として、一番下の孝さんは此処の青年会長として、本当に久保山先生の信心がどれ位い素晴らしくて、どれ位偉大であったかと感じます。皆さんがね。和子さんは和子さんであの様な熱心な信心を頂いて、それこそ親から子から孫達までがあの様に金光さま金光様であります。しかもその金光様金光様と言うのは言替えると、親先生親先生もう一から十迄が親先生である。
 親先生あって現在の久保山があると、そこで私が此処でんなら、言わなければならんと云うより、まぁ是はもう私の実感ですけれども、ま久保山さんの久保山のなら、久保山豊先生の御霊にです。私がまもし贐して言う言葉を探すならね、先生あんたがあったから合楽が出来たと言うても過言じゃないのですよ。そう云う間柄と云うものが愈々密なものに成って行く、二十何年間からの信心の中にはそれは様々な事が有った。
 皆がそれこそ背をそろえての信心ではなかった。久保山先生が、もうそれこそぬけつくぐつして朝お参りをして、全部それこそこっそり裏を戸を開けて畑の中を通ってお参りされた。架け橋じゃった樺目の。そして御理解を頂いてがあの御理解を全部速記してから、書いてからじっと帰られる。あの当時私、三井教会におかげを頂いて居る時に久保山先生私と秋永先生にです。
 うちの家内が信心がいっちょん解らんから、先生そん時は先生じゃないですよね。大坪さん一辺話に来て下さいと言われて、私話に参りました事が有りました。成程私の話を久保山さん聞いて下さいましたけれども、あのう大坪さんそうげな話なら私どん明善高の校長先生から、もっと素晴らしい話を聞いとりますと云うのが奥さんの言いごとでしたよ。明善校の校長先生から、そげな話しなら聞いとりますち。
 もう次の話な話しようがなかった。と云う程しのま所を通られた久保山さんが、さあそれこそ雪の日もそれこそ雨の日もね、しげしげと当時の椛目通いをされる迄には、様々な難儀な所があったんです。ある冬の朝朝の御祈念に参って来られた、久保山先生がご承知の様にね、私が御祈念に出る前に三十分前には椛目に着かれた。私を起こしたり奉仕着を着ける御用までして下さって、そして私を御神前に送り出して下さった。
 それが先生の日課でもあった。ですから人よりもやっぱり、小一時間先に出て来なければいけん、それこそ雪の中を一本の自転車の跡がずうと続いて居る、其処を後を長靴を履いた、奥さんが一所懸命歩いて来て、あの井戸の境のあの辺のまで来た時に、お父さんが辿られた道、お父さんが行かれた道、それを自分が長靴ばきで弾んで、此処を参って来よる、自分がもう有り難うしてこたえじゃった。
 と云う位に何年かの後には、お父さんの後から、信心に付いて行く信心ができた。子供達は信心は分からん、けれどもお父さんが、朝お水を頂いておるお水の音で、眼が何時も覚めたと、それで只僕たちが椛目に行くとね、お父さんが喜ぶからね、椛目にお参りしたと、あの時分親先生もなけりゃ、金光様もないのです。時々でも椛目にお参りすると、お父さんが喜ぶからであった。
 私は今朝御神前で今その控えに入れてある梅の木に、菜たねの花のそれを頂いて、はぁねそれを先生が、あんなに辛抱強いお方であったから、何時もお知らせに梅の様な信心と云うて下さって居ったから、あの梅が云うなら、久保山先生の御信心であろう、根元に入れてある菜の花が私であろうと。
 それは菜の花と云う言には、色々な意味がありましょう。所謂あれが菜種となって、油となってそして其れが周囲を明るくすると云う意味でしょう。そう云うおかげが、受けられる様に成った事も、そんならこの梅の信心が何時も朝から晩まで、在ったからだと云う事、親先生そげなこつ云いなさっちゃいけません。そう云う態度が元になっちゃいけません。もうそれこそ私の側に居って言うなら私を育てて下さった。
 ですからもう久保山豊先生、ああたがあって私がある合楽が有ると言うても過言じゃ無いでしょう。それでそんなら久保山先生が久保山一家がどう云うて居られるかと云うと、親先生あって私があると云う。
 親先生が無かったら私が今日の御理解を又、次に聞かせて頂いたら、ご理解八十二節の一番最後の所にですね、どこの太郎やら次郎やら分からん様に成ろうぞと云う所を頂いた。もし久保山に合楽の信心が無かったら、今頃は何処の次郎やら太郎やら分からない様成なって居ったであろうと云う事なんです。いかに四人の子供達が、どのような事に云うならば成って居ったか分らん、信心が無かったら。
 当時、例えば稔さんが東京の寿司屋の小僧に行くと、そりゃまぁ御承知のように善導寺の名門と言われた久保山の事ですから、兎に角、水商売なんてそれこそ、親戚も大反対じゃった。けれどもそれこそ決然として行って、十何年間ですかね、現在の双葉と云う所で修行させて頂いて、去年開店云う所に成ったら、もう開店すると同時にですね、それこそ花道に出たばかりで、ワーッと声が上がる如しの人気が出たんですから。
 いわゆる婦人クラブが、たったそんな新しい店を取り上げて、全国に云うならば紹介する程しの事に成ったんですからね。もうそれまでの十何年間と云う間は、いつ双葉を出るだろうか、いつ店を持たしてもらうだろうか、と、もうずうとお伺いのし通しだった。けれども神様はまぁだ時期じゃない、まぁだ待てまぁだ待てもう兎に角、親先生任せであった。これは、例えば稔さんだけの事でじゃない。
 茂さんの上に於いてもそうであり、孝さん和子さんの場合でも同じである。もうそれこそ、神様任せ云う事は、親先生任せ、親先生がおっしゃる通りしておけば良いと云う様なその信念が久保山一家の上に頂けた。もう一事が万事、三人の子供が嫁さんを貰う時だって、そうだった。和子さんが東京に行く事もご神意、親先生が云われたから行ったのであり、親先生が云われたから帰って来たのである。
 そう云う例えばならおかげを頂いて来たからと云うて、別にまあだ昔の久保山のそれにはまだまだ及ばない事でしょうねえ。財産とかまあ家の色々な事を言うたら。けれどももう、その当時それこそ家蔵財産があった時の久保山よりか、それよりかもっともっと大事なものを頂いて居ると云う事実をです、例えばこの前のあそこの四月の何日でしたかね謝恩祭にでも見る事が出来るでしょうが。
 どうしてこの様な事に成って来たであろうかと、どうしてこの様なおかげに成って来たであろうかと、もう何とはなしに家族をあげての信心がその様に光りだして来た。御造営の半ばでした。3年前の1月4日明日がお鏡開きだからお供えを下げてと、夜の御祈念が終わって其の事をし終わられて、椛目から帰られる途中にあの様な事故に遭われた。あれだけ一家をあげてあれだけの信心をなされて居って、どうしてあの様な事が起きるかと云う事である、誰が見たって誰が聞いたって、もうそれこそ真っ暗。
 もう是で久保山の信心もしまえたかに見えた。
 しかも椛目の帰りですよ。一日御用を頂いてその帰りですよ。当時の椛目全体が、本当にもう其れこそちょっと真っ暗に成るごとあった。その直後にお礼に一番初に出て来たのが、お母さんだった奥さんだった。そして子供達が次々お礼に出て来た。東京に電報がとんだ。稔さんは其の侭 飛行機で飛んでやって来た。福岡の飛行場から合楽に向って、当時は樺目でしたね、椛目へ向かって帰って来た。
 もう自分の家へ帰る前にまず合楽へ。そして飛行機から降りて自動車に乗って、自動車の中でずうっと姉と2人で、云うて来た事、和子さんも東京に行って居たからね、二人でもう唱える様に言うてきた事はです、ももよさんがずうっと云うて来た事はです「合楽のあけぼの」「合楽のあけぼの」と言うて来た。あれだけ打ち込んでおった父がです、しかも御造営半ばに亡くなった。これが合楽の曙の元にならんはずはない。
 あなたの死はお父さん無駄じゃ無かったと云うて椛目の一番はじの方にに出て来たと言うのです。それからあの久保山の信心は皆さんがご承知の通りであります。とにかく一歩だって後ろへ引きませんでした。私はそこん所をです、昨日の朝の御理解じゃ無いですけれども、いかにおかげを頂くから合楽通いをしておるのじゃあない。神信心が出来るから、おかげが付いて来るのです。
 神信心が出来ておったから、その様な大変な節に直面した時にです、それこそ一歩だってよろめく事無く前進する事が出来た。そして現在の久保山云うなら一門の信心がある訳なんです。おかげを頂くから合楽に通うて居るのじゃない、神信心、言うなら金光大神の信心を教えて頂くから、神信心が出来るから、神信心が出来るからおかげが付いて来ると云う。もしこれがどうだったでしょうか、久保山の信心が椛目参りゃ、合楽に参りゃお陰を頂くけん、さあ誰でん彼でん参れと云う様な、信心だったら。
 恐らくあれっきりでしまえとったでしょう。と云う様なですねお話しがです。今私が申しました。そんなら皆さんと私の場合であってもそんなら私と秋永先生、私と高橋さん、私と秋山さん私と久富さんと云う風にしてお話しをしたら、今の様なお話しが皆出来るんじゃないでしょうかと思うんですよ。皆んなもし私共の一家に合楽が無かったらと、本当に何処の次郎やら太郎やら分からない様な事に成りかねなかっただろう。
 合楽にはめぐりの深い人たちばっかり集まっておると、昨日博通君と信司君と話したと云う、その話したと云うから確かにそうだと、巡りが深いからこそ巡りを大きなめぐりを持っておるからこそ、神信心が出来るのだその神信心の後に続くものは、限りの無いおかげである。それはそれこそ一遍に百万長者になったと云う様な意味では無くてです。この信心さえ推し進めて行けばです。親先生おかげで今日の私共がありますと言えれるおかげに繋がる確信を持って皆さんが信心を進めて居ると云う事がね、
 私は合楽の信心のまあ有り難い所だと思うのですよ。 私はこの御理解第4節を頂いてね、いわば死(四)節と頂いた。まさしく私は久保山先生の事であろうと思うた。人間の最高の不幸とか悲しみと云うなら、死ぬると云う事でしょうねえ。しかも不意の災難に遭って亡くなるなんて、こんな不幸な事は有りませんでしょうねえ。けれどもそのそう云う大変な節、云うならその死の節がです。
 一歩も後ろへよろめきもせずに前に前進出来たと云う事は、神信心のおかげです。だから久保山の信心をもし一言にして言えと言われたらね、私は「あの一家は神信心が出来ております」と云う事だと思います。だからあのおかげが付いて来ておるのです、と云う事。そんなら久保山一門に言わせたら、兎に角親先生あって今日の善導寺がありますと云うその一言に尽きるんじゃないだろうかと思います。
 また事実そう言っています。私は合楽の強味はね、皆んなが一家をあげてその様に信心して行く、皆んながそう云う信心を目指して日々信心の稽古ができておる。今頃秋永先生が言って居られる様に、合楽ではおかげは受けられんて、他所で言うおかげは。いやむしろおかげをやらん様にお取次をしよんなさる、親先生はと云う意味の事を言ってます。また事実そうです。だからこそ何十年間信心が続いたんです。
 あれがおかげをやったら、もう今頃は、こんなに沢山朝参りする様な事に成って来て居りません。その証拠を見てご覧なさい。それは合楽でもです。それはもう本当に、枯れ木に花が咲いた様な、死人が蘇る様な、盲が目が開く様な、ちんばが立ち上がる様な、奇跡的なおかげは沢山頂いて来たけれども、そう云うおかげを受けて来た信心してる人はどうですか。月に一回。
 お礼参りだけはしよりますと云う位に成ってしまっておるでしょうが。おかげを私が渡しきらじゃったといや、渡しきらじゃった。だからこそ皆さんの信心が続いてる。いわゆる本当の信心の目が開けて来たんです。神信心するからおかげが付いて来る。そのおかげと云うのは、ただもう、口では表現できない。そう云うおかげを頂いておる。まあ私は今日、云うならもう明日ですね、あちらから見えます。
 教徒社から見えますから、まあ久保山さん達一門に集まって頂いて、各々が二十年間の間におかげ頂いて来た事を話して頂こうと思います。けれどもそれはどう云う所から、そう云う事に成って来るかと云うとです。久保山先生あんたがあって現在の私があると、私が心にそれが言えれる久保山一門のものがあって。親先生があって今日の久保山があると言えれる。それ以外にはない。
 だから金光さまと言う前に親先生と言や、そこにおかげが頂けれると云う程しのおかげ、程しの信心が成長して来て居ると云う事。そう云う私はおかげの表れ方こそがです。金光教の信心のおかげの表れ方でなからな、いけんと私は思うのです。だから愈々私と皆さんの間がです。その様な、言わば関係においてです。成長していかなければならない。 私がこげな修行したから、私がこう云う努力をしたから、こう云うおかげを頂いたと云う所には、もう金光さまの御信心は無いと思う。
 親先生あって、私共、合楽ね、言うならこの御理解第4節にま言うならばですね。金光大神あって神が世に出た、と云う様な事に成って来るのじゃないでしょうか。そう云う意味で、私はお話しの出来れる、信者と私の関係の信者がです。此処にはだんだん、増えておる言う事が、今後の合楽の力でもあろうと私は思います。はあ合楽に参ってみなさい、おかげ頂きますよと。
 成る程そう云う人達も沢山あります。あるからこそ枯れ木も山の賑わいで、賑おうておる訳ですけれども。そう云う人達がです。今私が私と久保山の仲をお話しした様な、言わば関係を保ちながら信心が進められて行く信者が出来てこ来ければ、合楽の力にも道の力にもならん。私はそう思います。そう云うおかげそう云う信心を、いよいよめざして行きたいとそう思いますね。
   どうぞ。